けものフレンズの飼育員解説シーン
http://anond.hatelabo.jp/20170223180109
飼育員の解説シーンいらなくね?
面白くもないのになんで律儀に毎回やってんの
まあ、ひとえにフレンズたちを愛でることにだけ集中したいのでしょうけど、
けものフレンズは間口が広いので解説シーンを楽しみにしてるフレンズもいっぱいいるのではないかなあ。
動物大好きフレンズ
飼育員さんの愛のある解説聞いてうれしー
考証大好きフレンズ
作品中でのフレンズたちの描写が、リアルなけものをベースに実に細かく考証されてることを確認できてたのしー
SF脳フレンズ
リアルな映像にリアルな飼育員さんのリアルな解説においてもなお、フレンズ化したけものが映されているところに、フレンズ本体の喪失やヴァーチャルな情報ライブラリが想起されて、ポストアポカリプスの気配がおましろーい
わたしはさんばんめーw
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けもフレロスに備える名作リスト
・・・のつもりで、いわゆる終末もののうち特にポスト・アボカリプティック・フィクションの視点で古今の作品を選んでたんですけど、
結局、ひとつの作品が突出してしっくりきたのでもうそれでいいやσ(^_^;)
(候補リストは後述)
その作品とは
直球表題ロボットアニメ - Wikipedia
これ、けものフレンズを制作しているヤオヨロズの最初の作品という点でも縁が強いだけでなく、
けものフレンズの「ポスト終末(アポカリプス)もの」という点の他にも多くの評価すべき共通ポイントがあるのです。
まあ、gdgd妖精'sの流れをくむ作品なので、声優さんたちのアドリブが作品の肝であり、この点は、けものフレンズとは大きく異なるように思えます。
が、作品を思い返してみると、けものフレンズがけものフレンズである点を一歩引いて比較してみると、意外に世界観が近いのではないかと、と思うにいたりました。
いわゆる終末ものの作品は、ポスト終末モノに限っても星の数ほどあります。
しかし、「直球」ほど、けものフレンズの特徴をくまなく備えている作品はあんまり思いつきませんでした。
その特徴を並べてみましょう。
ポスト終末もの:
終末「後」となるだけでかなり作品はしぼりこまれます。ゾンビものは「終わりつつある世界」なのでほぼ除外。ロメロのLand of Deadあたりまでいくとボアものと言えるでしょうかね。「直球」は人類の遺したものをロボットたちがあれこれ考える(アドリブ大喜利でw)というのが基本プロットです。
ロードもの:
旅物: 全ての物語は旅立ちと帰還の物語だ、とは言いますが、ここはやはり何かを求めての旅という構成が望ましいですね。「直球」では、場所の移動は顕著ではないのでこの点はちょっと弱いのですが、謎の感動を呼ぶ最終回への思索的彷徨としてみるとこのポイントも少なくはありません。
コミュニティの不在:
ボアものではそこに生き残ったものたちによる社会を描くことが目的だったりします。ナウシカとか典型的ですね。ところが、けものフレンズでは出会いはあるが、コミュニティとの出会いや終末後の社会というものがないです。それ故に、おのれとは何かという問いへの彷徨、そして終わってしまった世界の影が際立つのです。
「直球」は、限られたロボットたちの彷徨に終始し、追い求める笑いの向こうに世界を取り戻そうとしている物語です。
(・・とか言ってるうちに第6話で、集団同士での武力衝突が描かれてしまった・・)
廃園:
けものフレンズのエンディングで暗示される破棄された遊園地という背景。これ自体が色々と想像と郷愁を思い起こさせるテーマです。「直球」ではロボットたちのボケ合いが、そこはかとないアトラクション感を想起させてくれています。
優しい世界:
これは上記のコミュニティの不在にも大きく関係する特徴です。コミュニティを描くことは社会の構成を描くことであり、また人同士の関係性を描くことでもあり、そこに何らかの「優しくない」世界をも描くことになります。けものフレンズでは、子供番組的なむき出しのパーソナリティのみの世界によってひたすら優しいエピソードを積み重ねています。「直球」は緩いボケが同様な優しさを描きますw
ヴァーチャル世界:
これはまだ可能性のひとつであるけれどもジャパリパークそのものがヴァーチャルなサファリパークであるということは、多くの考察者たちに提示されています。
わたしも考察にのっかりました。
amori.hatenablog.com
「直球」は色々な意味でヴァーチャル空間でボケ倒してますのでw、そのメタさ加減をお楽しみください。
以上を踏まえて、生暖かい目で直球表題ロボットアニメをみていただければ、謎の感動を呼ぶ最終回で、このチョイスの意図をご理解いただけるかと
追記
やはり似たようなことを思う人はいるようです。
togetter.com
直球ロボットについて詳細あります(ネタバレあり)
以下、当初の候補リストですが、あまりにおっさんチョイスになってしまったので、
それぞれのポイントは、気が向いたらということでσ(^_^;)
※リストを発表順に並べ直してみました
・・・80、90年代がすっぽり抜けてるのとこに偏りが如実に出てますなあw
タイトル | 作者 | 発表年 | 備考 |
太陽系最後の日 | アーサー・C・クラーク | 1946/5 | 「破滅の日」収録 |
新ロト記 | ウォード・ムーア | 1953 | 同上 |
地獄のハイウェイ | ゼラズニイ | 1967 | |
ふたりは空気の底に | 手塚治虫 | 1970/4/10 | 「空気の底」収録 初出 プレイコミック |
宇宙戦艦ヤマト 小説版 | (原案:豊田有恒・著:石津嵐) | 1975 | |
ぼくを探して(絵本) | シルヴァスタイン | 1976 | |
ストーカー (映画) | タルコフスキー | 1979 | |
グラン・ヴァカンス 廃園の天使 | 飛浩隆 | 2002 | - |
恋する死者の夜 | 古橋秀之 | 2005/10 | 「ある日、爆弾が落ちてきて」収録 |
ゼーガペイン | (アニメ) | 2006 | - |
マッドマックス 怒りのデス・ロード | ジョージ・ミラー | 2015 |
バグのないプログラム
http://anond.hatelabo.jp/20170214233309
『二桁の整数の和を返すプログラムなら簡単に完璧に作れる。』
「・・それほど簡単じゃないなあ。」
「どこが難しいのよ?」
「まず『完璧』について合意された定義がないし、仕様も曖昧だし」
「完璧、とは完成したプログラムが仕様を完全に満たす、でいいでしょ。で、仕様のどこが曖昧?」
「んー、プログラムってのもまだ曖昧で、本当は要求の前提から始めたいとこだけど、まあ、わかりやすいところから確認していきましょうか、
まず、記述されていることの確認ね。
『二桁の整数の和』の『二桁』は『整数』と『和』のどっちにかかるの?」
「整数に決まってるじゃん。てか、結局同じでしょ。」
「いや、もし、『二桁の(整数の和)』なら演算結果が二桁に限定され、定義域と値域に条件がつく」
「はいはい、じゃあ『二桁の整数を入力として、入力の和を返すプログラム』でいいでしょ」
「まだ単語レベルで曖昧。二桁の整数だけ?一桁の入力はどうするの?」
「最大二桁の整数を入力として、入力の和を返すプログラム」
「じゃ次、『二桁の整数』。桁が規定されたから進数の定義もいるよ」
「最大二桁の10進数表現の整数を入力として、入力の和を返すプログラム」
「次、入力。これ確認するには、そろそろ要求の前提を決めなくてはならんね。この仕様、電卓みたいな人が入力するシステムの要求?それともサブシステム内の単体モジュールの要求?それによって『入力』の詳細変わってくるよ。」
「プログラムだから、もう関数モジュールでいいでしょ。『入力:最大二桁の10進数表現の整数、 出力:入力の和 である関数モジュール』でどうよ・・・」
「ふむ、モジュールね。では入力が条件外の値だったり整数でなかったらならどうするか?そもそも入力の型を想定するの?それに入力の数が不明。」
「C言語前提、『入力 long:最大二桁の10進数表現の整数がふたつ、 入力値の条件判定は関数モジュール呼び出し側で行なうものとし、条件外の入力に対しては結果を保証しない。出力:2つの入力の値の和 をreturn値として返す関数モジュール』(-。-;」
「あれ、もう実装レベルの仕様に落としちゃうの? 動作保証しないのはバグがないという条件に反するのでは?あと細かいことだけど、Cのlongを前提にしたら、算術和、論理和、排他的論理和があるんだけど・・・」
「・・もうさ、要求仕様どうたらでなくて直接プログラム書いた方が完璧になるでしょ。
#define ERROR -100
long add_2digit_integer( long m, long n)
{
if ( (m > -100) && ( m < 100 ) && ( n > -100 ) && ( n < 100 ) ){
return m+ n ;
} else {
return. ERROR ;
}
}
ほれ。入力エラー処理まで入って完璧なプログラムでしょ。」
「いや、ソースコードでしょ。そりゃ書いた通りにしか動くというのは完璧だろうけど、それトートロジーだよ。
あらためて『完璧』の定義を確認すると、例えば想定された条件において入力に対して正しい出力が返されること、という点で合意するとして・・」
「はいはい、さっきのソースコードにテスト追加すればいいんでしょ」
「テストの前に、想定された条件も確認しないと。条件にパフォーマンスも含まれる。レスポンスタイムの要求はソースじゃわかんないし。だからやっぱり要求仕様からやり直し」
「・・あとは・・?」
「じゃあ最初から順番に。
関数モジュール制作の手順計画
パフォーマンスも含む要求仕様および前提条件、開発環境、実行環境、試験環境の決定
試験仕様、モジュール試験環境の構築、
モジュール仕様、ソースコード
試験レポート、
あと、検証確認結果の顧客の確認を持って、合意の範囲で「完璧」と言える・・・かも」
「かも?」
「顧客要求はいつ変わるかわからんからねえ・・・・工程と見積もり出しましょうか?w」
セルリアンGC仮説
最近は純粋なフレンズ愛好家の増加も著しいようで平和で優しい世界の広がりが喜ばしい限りであるが、
初期考察班による「闇の深さ」という餌に釣られてしまうような心の汚れたSF好きおじさんには、
やはりポスト・アボカリプティック、ポスト週末もの、としての尋常ならざる二面性に惹かれてしまう。
第4話において、ジャパリパークが廃墟となっている遊園地・サファリパークアトラクションであることがほぼ間違いないことが示されました。
では、ジャパリパークに何か(^。^)あったのか、ということが今後の興味に中心であろうが、その前にジャパリパークとはいったいどんな遊園地であるかということについて、すでにいくつかのヒントが物語内にも番組企画というメタな視点においても散りばめられている。
そこで仮説としてジャパリパークが電脳空間のアトラクションであろうというのは、極めて自然であろう。
フレンズの生成というプロセスがまさに電脳空間での実態とみえるし、何と言ってもメディアミックスで展開されたソシャゲの存在およびサービスの終了というメタな背景が、ジャパリパークが電脳空間であることを意識させる構造になっている。
そして、セルリアンというフレンズを捕食する存在がより電脳世界の気配を色濃くしてくれる。
セルリアン、あれってガーベージコレクションのプロセスに見えてきませんか(^_^;)
ガーベージコレクション、つまり使用済みのメモリなどをかき集めて、演算リソースとして再利用する仕組み。
セルリアンの捕食行動が、本来は不要となっているプロセスの回収であると仮定するならば、狩られているフレンズたちは、本来は破棄されるべきいわゆるゾンビプロセスということになる。
もちろんセルリアンのほうが、暴走したプロセスであり、正当なプロセスであるフレンズがそんな環境の中なんとか生き延びている、というのがジャパリパークの世界なのかもしれない。
あと、フレンズは群れをなしておらず、友達探しをしているというのは、フレンズ生成というのはシングルトンプロセスのパターンをベースにしているのかもしれない。
ということは、フレンズとは種の保存をプロセスとして電脳空間に最低限実体化させているというノアの箱船の生き物という考え方も可能であろうか。
ああ、こんなことばっかり考えてると、最後にたどり着いた図書館は砂浜に埋まる自由の女神だったりするんじゃねーだろ〜なーとどんどんべつのべくとるにあいきゅーをけずっていくのだー
たのしーーー
創作ゲーム「古書店ぐらし」・・まだ思いつきレベル
昨日、テレビをつけたらNHK探検バクモンで神保町古書店街を紹介してました。
その中で古書店間での競り会が説明されてまきて、
おお、これはビブリア古書店で書かれてたやつだ(^。^)
競りのシステムが面白い。
各店は、お目当の本があったら値段を書いた札を本ごとに準備された封筒に入れておき、最後に札を付き合わせて一番高い値段を書いた店が本を買い取れる、という仕組み。
面白いのは、値段を3段階書けるというところ。
札を入れたのが一件ならば、一番安い値段で決まり。
複数の店が札を入れたら「他の全ての店の札の最高額より高い値段をつけた店が購入」
つまり、必ずしも3段階の値段の一番で競り落とすわけでなく、例えば、
「いいとこ2000円だろうなあ。けど、これはどうしても欲しいから、念のため、1500 / 2000 / 3000 にしとこうか」
という感じで、他が2000未満なら読み通り、仮に2000超えられても3000をリミットとして一回は競り上げられるわけですね。
3段階の値段つけというのは、あわよくば安く、妥当な値段、リミッターとしての上限、という競りの要素をシンプルに一度に仕込めるなかなか面白いシステムだと思いました。
当然、目利きと資金力、マーケット情報と相手の札入れの傾向まで踏まえた心理戦の要素が多分にあることは明らかです。
というわけで、この仕組みをコアにした古書店の本の売買自体の流れ全体をアナログゲームにしたら面白いのではないかと思いつきました。
大まかな流れはこんな感じでしょうか。
1) プレーヤーはそれぞれ古書店を経営する。
2) 最初に各店に本を配る
3) 手持ちの本からいくつか選択して競売に出す
4) 競りのシステム使って売れそうな本を競り落とす
5) 各店は揃えた本を並べて販売をする
6) お客さんはカードで模倣し、販売することで売り上げをえる(販売フェーズの仕組みは別途)
7) 3〜6を何回か繰り返し、勝利条件の判定で勝敗を決める
まあ単純には一番売れた人が勝ちでしゃうけど、ここは古書店の意地で、一番高いとこ沢山売ったとかの基準もありかみです。
途中にお蔵出しステージでレア本を競りに供給したり、セットもの効果になったり、客層というものを明確にして、次の販売フェーズでの売れ筋予測を勝負の肝にするとか、システムとプレイヤビリティのバランスなど工夫の点はやまほどありそうです。
誰か作ってくれないかなあ・・・というか、もう既に似たようなシステムのゲームあるかな σ(^_^;)
「終わらない人 宮崎駿」完全版 ・・・別物だった(°_°)
色々と物議を醸した最初の放送から時間が長くなってるようなので、どんなシーンが加えられたのかと思って観てみたら、
編集から構成まで全然違うドキュメントになってました。
大きな流れはそれほど変わっていないのですが、ナレーションを一切排し、しかもテロップも会話の言葉の字幕以外、状況や人の感情や雰囲気を説明するようなテロップは一切ありませんでした。(あったのは年と月、アニメーションに関係する簡単な用語説明ぐらい)
元々このような構成にしたかったのか、先の本放送の恣意的な演出に対してクレームがあって作り直したのかはわかりませんが、ノーナレーションで編集のみによる演出のドキュメンタリーという今時珍しい番組になっていたと思います。
まあ確かにこれを地上波総合で放送するのはちょっとハードル高かったでしょうねえ。
テレビをかけ流して、ながらで観れないですもん。
映画を観るように、言葉に、シーンに、表情に状況や流れを読み取ることを視聴者に求めるつくりになってました。
微妙にカットされてたシーンの有無ひとつでも、そこから伝わってくるものが随分変わっているなあと思いました。
そして、見る側が主体的に話を読み取ろうとする事によって、見えてくるものがけっこう変わるものだなあ、ということを強く感じました。
同じ素材を使ってもこれほど印象が変わるとはσ(^_^;)
前の本放送を観た人にこそ、もう一度観てもらいたい完全版でした。
↓本放送時の感想はこちら
http://amori.hatenablog.com/entry/2016/11/16/020801