逃げ恥 10話 ラス前スパート(*'▽'*)
イチャイチャのシーケンスもお仕事開眼モードも、結局はプロポーズぶち壊しの前振りというのはなかなかなに手の込んだ原作要素の再構成ですな。
残り一話は、原作単行本フォロー組には半分以上未知の領域なので、ドラマの結末を純粋に楽しめそう。ワクワク。
ところで、ドラマ放映前の予想において石田ゆり子のゆりちゃんへのキャスティングは、お仕事モードに振れるみくりのカウンターとして恋愛パートを原作以上にがっつり担うことになり、それ故設定年齢もかなり下げてきたのでは、と書きましたが、
「逃げるは恥だが役に立つ」野木亜紀子脚本でドラマ化 - amori's blog
結局はゆーっくりと風間との状況設定をして残り一話で一気に押し込んできましたね。
ゆりちゃん・風間パートは原作でも二巻以上を費やしてきているので、きっと後半1/3ぐらいを充てるのだろうなあと思ってたのでこれはちょっと意外でした。
その分、風間との意思疎通の過程を、ヒラマサみくりの仲直りの背景に組み合わせることでじっくりと状況を整えてたわけでしょう。そのおかげでみくり側のムズキュンがより際立ったわけで、ドラマ全体のコメディとしてのバランスは綺麗にとれてたなと感じました。
けどね・・・・
ゆりちゃんが「びっくりした・・」となるシーン、甥っ子枠だった風間が男の感情を露わしてしまったとこですか、
あそこ、どーにもこーにも展開が弱かったのではないかと残念に思ってしまいましたわ(-_-)
原作では風間のセリフもうちょっと強いんですよ。でもって、ゆりちゃんの反応のモノローグも驚き以上に自省が強かった。
これはもちろん、原作のほうでの年齢差恋愛という背景ゆえのシリアスさとの差もあるんでしょうが、
個人的な見解としては、風間、いや大谷亮平の役作りがドラマが必要とする感情の発露を表現するに至ってなかったのではないかと感じています。
バーのシーンとか助手席のシーンとか涙隠すシーンとか、布石と展開として演技プラン仕込むとこはいっぱいあったでしょうに・・・日本の演出スタイルにまだ馴染んでないのかなあ
セリフの改変も、もしかしたら大谷亮平の演技キャパに合わせて一番伝わりやすい言葉変更したのかな、とすら思ってしまったりして、そんなことを考えること自体がちと残念。
もっともこれはまあ、石田ゆり子パートの話数が予想より少なかったやつあたりという自覚がないわけではありません(-。-;
さーて、どうせまた日曜日の特番あるだろうからガッキーとゆりちゃんで眼福眼福としけこもーっとわ、
実写ドラマ「咲-Saki」 ・・これはアリかも
ノーマークだったのですが、いつの間に録画されていた(^_^;) ので観てみました。
ちなみにアニメの最初のシーズンは観ているのでキャラや世界観は把握済みです。
で、結論からいえば、
前半10分ぐらいを乗り切れば、アニメ版のファンでもなかなかに楽しめるのではないかと思いました。
さらに言えば、アニメ実写化のひとつの手法を実現したかもしれないとすら思います。(言い過ぎかも・・)
いやね、オープニングでずらずらと出てきたキャラの実写をみた時は、やっぱあの世界を三次元で実現するのは無理だわなー無茶しやがって、と正直思いましたよ。
さらに冒頭の、咲と和(のどか)の出会いのシーン、セーラー服のあまりにコスプレ感の強さに、あちゃー(>_<;)((c)すずさん)となりました。
加えて配役も、アニメキャラの記号的要素をまんま意識流用した造形で、何もそこまでアニメに寄せなくてもいいのになあ、これ典型的な悪い意味で痛い学芸会ドラマになるなー、
ま、どこまで痛いか見届けるか、と逆に腹が座ったぐらいで。
で、タコスに至っては典型的なアニメ声。ここはあえてルックスではなく釘宮ボイスの記号性によせて声優さんを当ててきたのかな・・・おや、広島弁眼鏡は若干あやしい広島弁がいい感じにバランスとれてるぞ・・・
って、もう慣れてきてしまってるでないの(^_^;)
そして麻雀の闘いの流れで、もう馴染んでしまいましたわw
うーむ、やはり麻雀漫画のフォーマットはオールマイティだなあ。原作コミックでの親和度もそうなんですが、麻雀漫画ってもともとSF歴史オカルト百合薔薇伝奇となんでも吸収してしまえるもんですから、ハードル高いと思われてた百合アニメの実写化すらなんとかしてしまったという感じですね(^_^)
もちろんこれは制作陣の「実写を可能な限りアニメに寄せてその世界観を借用することで、ひたすらキャラを愛でられる作品にする」という戦略があってのことでしょう。
あとで気がついたのですが、タコス役はタモリ倶楽部鉄道ネタでお馴染みの廣田さんだったのですね。声の記号性に寄せてきたのはスタッフの作品理解の賜物だと再認識しました。
それから光太郎を消し去ったのも大正解ですね。もともと世界観には不要な存在ですし、この世界観を壊さずに実写キャラをあてられる役者さんも全然イメージできません。
初回でもうセットアップは充分上手く機能したので、二話以降はかなり自由にキャラやシチュエーションを投入できそうですね。
来年は映画まで準備してるようなので、この企画と仕掛けがどこまで成功するか注目ですね。
これが上手くまわれば2.5次元ミュージカルのような形で、実写美少女モノ企画がジャンルとして成立したりして(^_^)
逃げ恥 第8話: 脚本によるアレンジの極み
えー、更に視聴率が上がったとか、最後の2話は拡大判だとか、絶好調の無双モードですね。
これで次の野木亜紀子脚本ドラマはさらに大胆なチャレンジを期待できます(^_^)
さて、無事二人がよりを戻した第8話、さらなるムズキュンを期待していた視聴者には次回までのお預けになってしまったかもしれませんが、わたし的にはもんの凄く脚本の冴えに感嘆した回でありました。
原作では、
「初キス→拒絶→よりを戻す」
という流れは、ほとんどみくりとひらまさの間だけで完結し、「因数分解」のくだりも結局みくりが自分で考え抜いた結論として表に出たものでした。
それに対してドラマ脚本での「拒絶」以降の流れは、
みくり失態にいちまれなくなる→丁度いい口実に乗っかって実家に逃避→親族大集合→色々な恋愛と夫婦の形を知る→それを踏まえて因数分解→一歩前へ
となっていました。
これに加えて、ひらまさ側の殻を破るというステップもしっかり描いています。
こうまとめてしまうと脚本での大幅な脚色と改変がなされたように思えますが、ドラマを観てる間は、原作をうまい具合にまとめてなおしたなー、という感想でしかありませんでした。
原作で当該箇所を確認して、その差の大きさにむしろびっくりしたぐらいで(^_^;)
それほどまでに脚本の構成が、原作の本質的なテーマや登場人物の設定・キャラをまったく損なうことなく完璧に再構成してたってことなんでしょうね。
作者はこのドラマで「多様性を描きたい」と原作者に伝えたそうです。第5話ラストのハグに至るまでにさりげなく描かれていた様々な夫婦・家族の姿、そして今回第8話のラストに至るまでに織り込まれた登場人物それぞれの想いを直接に交差させる流れ、全てがものすごく自然に展開しており、そして全てを総括した二人それぞれの決意の告白へと至る。
プロットはしごく重層的であるのに、全く重くなく、さらにコメディのテイストとのバランスも完璧です。
なんというか、周到にテーマの変奏を重ねて構成された交響曲のようではないですか。
この脚本の妙を例えるのなら、
バイオリンなどのソロ曲であった原作を、技巧を凝らして壮大なオーケストレーションに編曲した
というのがアレンジャーとしての野木亜紀子の脚本なのではないかと。
もちろん、演出・監督=指揮者、役者さん=演奏者、その他スタッフ諸々があってこその傑作=名演であることは言うまでもありません。
けど、やはりまずはスコアがないことには始まりませんから(^^)
「原作付き作品の脚本に定評のある野木亜紀子」という評価は、逃げ恥で更に確固たるものになりましたが、もうこれからは「原作付き脚本」という条件付ではなく「名脚色家」と呼ぶべきではないかと。
そうそう、わたしが「逃げ恥」のドラマ化決定のニュースを聞いて、原作の持つコメディと考察の複雑なテイストを野木脚本でどのようにドラマとして構成してくるか期待してましたが、
「逃げるは恥だが役に立つ」野木亜紀子脚本でドラマ化 - amori's blog
まさにその原作の持つテイストを捉えていた感想が第8話に対して提示されていました。
ここでは「逃げ恥」のムズキュンファンに遠慮して、この感想を自ら異端であるかのように書いていますが、エクスキューズを入れつつもこの感想を書くに至ったのは、やはり脚本がきっちりと原作のテイストをドラマの中に綺麗に織り込んでいたからなのではないかと思います。
アメトークのWWE芸人を観てわかった
あれが成立するアメリカなら、
そりゃ、トランプ当選するわwww
クローズアップ現代:君の名は。メガヒットの謎・・・
なんでこの時期にこの企画? しかもマーティまでかつぎ出して。
これは紅白でRADWIMPをプッシュするためのテコ入れかな、NHK的な切り口を見せてもらいましょか、と思って観てみたんですが・・・
・・・
・・・
・・・クロ現って、こんな番組だっけ(^_^;)
報道番組の建前もほとんど残ってない宣伝番組の体でしたわ。
最初の導入こそ、RADWIMPのツイートが公開前から盛り上がったという分析から入りましたが、これだって公開前CM展開と、あともしかしたらシン・ゴジラのヒットで予告編に引っ張られたかもしれず、
けど、そんな分析もなくましてや音楽的な分析とヒットの関係分析もなく、
なんのためマーティ呼んだだか・・・・
で、後半で番組の意図は明らかで、
「年配層にも当たっている」
という主張で、これってつまりは興行を更に積み重ねるために、まだ観てない層に「あなたの世代でもうけてますよー。みんな胸キュンしてますよー」という宣伝ですよね。
ワイドショーみたいに、年配層を集めた上映会で反応みたりしてましたが、
胸キュンしたらハートマークあげてくださいって、
あれだけ面白い映画に集中してたらそんな余裕ないでしょヽ(´o`;
案の定、系統的なデータは取れるわけもなく、よくある映画のCMみたいに鑑賞者の感想を並べるという・・・
200億円突破のために代理店があらゆる手を打ってきたってとこなんですかね。
そういえば、12月にパンフレット第二弾を売り出すとか。
興行には貢献できんけどパンフだけは買いに行こっと(^_^)
田中一成さん、ありがとうございました。(ハイキュー!! Season 3 第8話)
ついにこの時が来てしまいました。
ハイキュー !! (第3期)烏野高校vs白鳥沢学園高校 第8話。
声優、田中一成さんが、烏養(繁心)コーチに声をあてた最後の回。
ハイキューは本当に大好きなシリーズで、歴代アニメの中でマイオールタイムベストの作品、
スポーツものでは間違いなくNo.1です。
このアニメの素晴らしさを語るべきポイントは多々あり、声優陣による魅力的なキャラクター達もそのひとつです。
それ故、第3期放送開始早々の田中一成さんの訃報は大きなショックでした。
烏養コーチ、いや田中一成さん、白鳥沢との戦いを最後まで見届けてくれないのか・・・
第1期の最後。ほろ苦い敗北を選手たち受けとめさせ、次に導いていく幕切れは印象的で、烏養コーチの存在・田中一成によるキャラクター造形によって作品の格が完成したと感じたものです。
県大会決勝戦のみに集中した第3期。見事な脚本と演出、そして声優陣が魂を吹き込んだ登場人物たちによって、話を重ねるごとにどんどんと緊迫の度合いを盛り上げてくれています。
1話終わるごとに「よしコーチとここまで来たぞ」と、毎回思っていました。
そしてついに第8話、物語の終盤。最終セットにもつれ込んでいた試合で、烏野は最後の1点ところまで追い込まれます。
もう極限の疲労の中にある選手たちにの間に漂う重い空気。もうタイムもとれない。
そんな状況で烏養コーチが立ち上がり絶叫します。
「下を向くんじゃあああああああねええええええええ!!!!」
「バレーは上を向くスポーツだっ!」 笑顔。
また頭を上げる選手たち。そして負傷退場からツッキーが戻ってきた。
ーーーーエンディングへ
・・・・・・・これが田中・烏養コーチが遺した最後の言葉なのか(T_T)
もともとそうだったのか、それとも構成を変えてここに持ってきたのかはわかりませんけど、これはスタッフの愛と敬意を感じずには入られません。
本当に最後の最後の土壇場のところで選手の頭を上げさせて笑顔とともに去っていくなんて、(いや、去ってないけど)本当に烏養コーチらしいじゃないですか。
田中一成、ありがとうございました。
(今頃は木星にでも遊びに行ってるのかなあ( ; _ ; ))
「この世界の片隅で」一生記憶に残るであろう映画
・・・すごい「映画」を観てしまった。
公開から2週間、既にそうそうたる批評家たちからの絶賛の嵐の中今更ではあるが、やはり語らずにはいられない。
冒頭のシーンこそ、こうの史代の可愛らしい絵柄でほんわか観ていたのだけど、
シーンがいくつか進んだところで、もう映画の世界に魅入らされてしまった。
完全に没入してしまったといっても過言ではない。
物語は、広島から呉に嫁いだ、すず、という女の子を戦前から戦中・終戦あたりまで描いたものである、
と書くと、数多くのドラマや映画、連ドラや終戦記念日特番などで描かれてきた戦中もののひとつかと思われるだろう。
その通りである。
物語の起伏は既存の数々の物語に比べるとむしろ非常になだらかであるかもしれない。
しかしその作り込みが尋常ではなかった。
あとで監督インタビューを読んで知ったことだが、監督はコニー・ウィリスのタイムトラベルもののように、観客を当時にタイムスリップした感覚で物語を感じてもらうべく、徹底的に調査考証をしたそうだ。そしてすずさんを実在した人物として感じて欲しい、と。
そのために注ぎ込まれた監督・スタッフ、そして呉市の後援会の方たちの膨大な努力は狙い通りに、そしてその思惑を超えて結実していると思う。
わたしは上映中たしかにすずさんと同じ世界の空気を感じていた。
そして鑑賞から1週間過ぎた今ではその記憶は、物語のそれではなくそういえばそんなこともあったかなあ、という自身の視点からの記憶に溶け込もうとしている。
きっとこの先この映画の記憶は、本当に記憶 ー 子供の頃ひと時を過ごした引っ越し先や旅先、父母祖父母たちから聞いた戦中の話、そしてみずから体験した震災の非日常 ー とともに、だんだんと区別なく心に留まりつづけるのではないかと感じている。
本当にすごい「映画」だ。