amori's blog

よろず技術系と趣味関係の雑記です。アニメの比重が高くなってます・・

今、巷で話題のNHK「終わらない人 宮崎駿」を観た

ドワンゴ川上のAI生成のクリーチャーCGに宮崎駿激怒、というひとコマに対して、ネット上で宮崎・川上それぞれに避難と擁護が交錯していますけど、それぞれが主張するほどには、川上のプレゼンが下手でも不快でも、宮崎の発言が激怒というほど感情的であったとも思いませんでした。(むしろ丸くなったなあ、とすら思いましたよ)

なんかこのプチ炎上のおかけで、この番組の制作者がドキュメントにを通して視聴者に伝えたかったであろう制作意図が吹き飛んでしまっているようでちょっと残念です。

この番組の最後は宮崎が長編の企画をまた立ち上げている、というところで終わっています。そこに至るクライマックスは「なぜ引退宣言をひっくり返ししたのか」というその瞬間でしょう。

例のシーンの最後のところがまさにそれで、
鈴木Pがドワンゴ側に対してAIの研究が(たぶん助け舟として)「どこにむかっているのか」とたずねたことに対する「機械が絵を描けるようになること」という(苦し紛れかもしれない)回答を聞いた宮崎の表情のアップでしょう。

あのカットはあからさまに「ここが宮崎が決断したトリガーだ」という演出でした。

番組の冒頭からの流れは、

引退後の手慰みの短編映画作成の日々

CGクリエーターとの出会い

CG導入の決意

CG適用の苦闘

ついに演出の突破口を見つける

という流れ中で、手書きにこだわる宮崎とCGに席巻されてしまったアニメとの対比が語られていました。

そして「もう老い先短いのだから無責任に長編を始めて人を巻き込むことはできない」と語っていたのは、まだおさまらない自己の創作欲求を自分で抑え込みなんとか納得させているように見えました。

しかし「今の時代に渇望されている作品があるはずだ」とつぶやき、「機械が絵を描くことを語る」若者を見て、若い世代が自信を失っているのではないかと考え、そして宮崎アニメを支えていた戦友ともいうべきスタッフに先立たれました。

番組の意図は「宮崎はまだ、たとえ路半ばで力尽きても自らが描くことで伝えねばならないことがある、と決意した」ということでしょう。

もちろん、ドキュメンタリーとは監督の意図によって再構成された物ですから、それは宮崎の本当の意図ではない可能性もあります。

しかし稀代のクリエーターに密着したからこそ撮れた一連の記録は、もし長編企画が世に出たならば、その作品を読み解くための重要な背景になるでしょう。

プチ炎上でその辺りが語られてないのはちょっと残念です。