amori's blog

よろず技術系と趣味関係の雑記です。アニメの比重が高くなってます・・

セルリアンGC仮説

最近は純粋なフレンズ愛好家の増加も著しいようで平和で優しい世界の広がりが喜ばしい限りであるが、
初期考察班による「闇の深さ」という餌に釣られてしまうような心の汚れたSF好きおじさんには、
やはりポスト・アボカリプティック、ポスト週末もの、としての尋常ならざる二面性に惹かれてしまう。

第4話において、ジャパリパークが廃墟となっている遊園地・サファリパークアトラクションであることがほぼ間違いないことが示されました。

では、ジャパリパークに何か(^。^)あったのか、ということが今後の興味に中心であろうが、その前にジャパリパークとはいったいどんな遊園地であるかということについて、すでにいくつかのヒントが物語内にも番組企画というメタな視点においても散りばめられている。

そこで仮説としてジャパリパークが電脳空間のアトラクションであろうというのは、極めて自然であろう。

フレンズの生成というプロセスがまさに電脳空間での実態とみえるし、何と言ってもメディアミックスで展開されたソシャゲの存在およびサービスの終了というメタな背景が、ジャパリパークが電脳空間であることを意識させる構造になっている。

そして、セルリアンというフレンズを捕食する存在がより電脳世界の気配を色濃くしてくれる。
セルリアン、あれってガーベージコレクションのプロセスに見えてきませんか(^_^;)

ガーベージコレクション、つまり使用済みのメモリなどをかき集めて、演算リソースとして再利用する仕組み。

セルリアンの捕食行動が、本来は不要となっているプロセスの回収であると仮定するならば、狩られているフレンズたちは、本来は破棄されるべきいわゆるゾンビプロセスということになる。

もちろんセルリアンのほうが、暴走したプロセスであり、正当なプロセスであるフレンズがそんな環境の中なんとか生き延びている、というのがジャパリパークの世界なのかもしれない。

あと、フレンズは群れをなしておらず、友達探しをしているというのは、フレンズ生成というのはシングルトンプロセスのパターンをベースにしているのかもしれない。
ということは、フレンズとは種の保存をプロセスとして電脳空間に最低限実体化させているというノアの箱船の生き物という考え方も可能であろうか。


ああ、こんなことばっかり考えてると、最後にたどり着いた図書館は砂浜に埋まる自由の女神だったりするんじゃねーだろ〜なーとどんどんべつのべくとるにあいきゅーをけずっていくのだー


たのしーーー


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創作ゲーム「古書店ぐらし」・・まだ思いつきレベル

昨日、テレビをつけたらNHK探検バクモンで神保町古書店街を紹介してました。

その中で古書店間での競り会が説明されてまきて、
おお、これはビブリア古書店で書かれてたやつだ(^。^)

競りのシステムが面白い。
各店は、お目当の本があったら値段を書いた札を本ごとに準備された封筒に入れておき、最後に札を付き合わせて一番高い値段を書いた店が本を買い取れる、という仕組み。

面白いのは、値段を3段階書けるというところ。

札を入れたのが一件ならば、一番安い値段で決まり。
複数の店が札を入れたら「他の全ての店の札の最高額より高い値段をつけた店が購入」
つまり、必ずしも3段階の値段の一番で競り落とすわけでなく、例えば、
「いいとこ2000円だろうなあ。けど、これはどうしても欲しいから、念のため、1500 / 2000 / 3000 にしとこうか」
という感じで、他が2000未満なら読み通り、仮に2000超えられても3000をリミットとして一回は競り上げられるわけですね。

3段階の値段つけというのは、あわよくば安く、妥当な値段、リミッターとしての上限、という競りの要素をシンプルに一度に仕込めるなかなか面白いシステムだと思いました。

当然、目利きと資金力、マーケット情報と相手の札入れの傾向まで踏まえた心理戦の要素が多分にあることは明らかです。

というわけで、この仕組みをコアにした古書店の本の売買自体の流れ全体をアナログゲームにしたら面白いのではないかと思いつきました。

大まかな流れはこんな感じでしょうか。
1) プレーヤーはそれぞれ古書店を経営する。
2) 最初に各店に本を配る
3) 手持ちの本からいくつか選択して競売に出す
4) 競りのシステム使って売れそうな本を競り落とす
5) 各店は揃えた本を並べて販売をする
6) お客さんはカードで模倣し、販売することで売り上げをえる(販売フェーズの仕組みは別途)
7) 3〜6を何回か繰り返し、勝利条件の判定で勝敗を決める

まあ単純には一番売れた人が勝ちでしゃうけど、ここは古書店の意地で、一番高いとこ沢山売ったとかの基準もありかみです。

途中にお蔵出しステージでレア本を競りに供給したり、セットもの効果になったり、客層というものを明確にして、次の販売フェーズでの売れ筋予測を勝負の肝にするとか、システムとプレイヤビリティのバランスなど工夫の点はやまほどありそうです。

誰か作ってくれないかなあ・・・というか、もう既に似たようなシステムのゲームあるかな σ(^_^;)

「終わらない人 宮崎駿」完全版 ・・・別物だった(°_°)

色々と物議を醸した最初の放送から時間が長くなってるようなので、どんなシーンが加えられたのかと思って観てみたら、

編集から構成まで全然違うドキュメントになってました。

大きな流れはそれほど変わっていないのですが、ナレーションを一切排し、しかもテロップも会話の言葉の字幕以外、状況や人の感情や雰囲気を説明するようなテロップは一切ありませんでした。(あったのは年と月、アニメーションに関係する簡単な用語説明ぐらい)
元々このような構成にしたかったのか、先の本放送の恣意的な演出に対してクレームがあって作り直したのかはわかりませんが、ノーナレーションで編集のみによる演出のドキュメンタリーという今時珍しい番組になっていたと思います。

まあ確かにこれを地上波総合で放送するのはちょっとハードル高かったでしょうねえ。

テレビをかけ流して、ながらで観れないですもん。
映画を観るように、言葉に、シーンに、表情に状況や流れを読み取ることを視聴者に求めるつくりになってました。

微妙にカットされてたシーンの有無ひとつでも、そこから伝わってくるものが随分変わっているなあと思いました。

そして、見る側が主体的に話を読み取ろうとする事によって、見えてくるものがけっこう変わるものだなあ、ということを強く感じました。

同じ素材を使ってもこれほど印象が変わるとはσ(^_^;)

前の本放送を観た人にこそ、もう一度観てもらいたい完全版でした。

↓本放送時の感想はこちら
http://amori.hatenablog.com/entry/2016/11/16/020801

逃げ恥 10話 ラス前スパート(*'▽'*)

イチャイチャのシーケンスもお仕事開眼モードも、結局はプロポーズぶち壊しの前振りというのはなかなかなに手の込んだ原作要素の再構成ですな。

残り一話は、原作単行本フォロー組には半分以上未知の領域なので、ドラマの結末を純粋に楽しめそう。ワクワク。


ところで、ドラマ放映前の予想において石田ゆり子のゆりちゃんへのキャスティングは、お仕事モードに振れるみくりのカウンターとして恋愛パートを原作以上にがっつり担うことになり、それ故設定年齢もかなり下げてきたのでは、と書きましたが、
「逃げるは恥だが役に立つ」野木亜紀子脚本でドラマ化 - amori's blog

結局はゆーっくりと風間との状況設定をして残り一話で一気に押し込んできましたね。
ゆりちゃん・風間パートは原作でも二巻以上を費やしてきているので、きっと後半1/3ぐらいを充てるのだろうなあと思ってたのでこれはちょっと意外でした。
その分、風間との意思疎通の過程を、ヒラマサみくりの仲直りの背景に組み合わせることでじっくりと状況を整えてたわけでしょう。そのおかげでみくり側のムズキュンがより際立ったわけで、ドラマ全体のコメディとしてのバランスは綺麗にとれてたなと感じました。

けどね・・・・
ゆりちゃんが「びっくりした・・」となるシーン、甥っ子枠だった風間が男の感情を露わしてしまったとこですか、
あそこ、どーにもこーにも展開が弱かったのではないかと残念に思ってしまいましたわ(-_-)

原作では風間のセリフもうちょっと強いんですよ。でもって、ゆりちゃんの反応のモノローグも驚き以上に自省が強かった。

これはもちろん、原作のほうでの年齢差恋愛という背景ゆえのシリアスさとの差もあるんでしょうが、

個人的な見解としては、風間、いや大谷亮平の役作りがドラマが必要とする感情の発露を表現するに至ってなかったのではないかと感じています。

バーのシーンとか助手席のシーンとか涙隠すシーンとか、布石と展開として演技プラン仕込むとこはいっぱいあったでしょうに・・・日本の演出スタイルにまだ馴染んでないのかなあ

セリフの改変も、もしかしたら大谷亮平の演技キャパに合わせて一番伝わりやすい言葉変更したのかな、とすら思ってしまったりして、そんなことを考えること自体がちと残念。

もっともこれはまあ、石田ゆり子パートの話数が予想より少なかったやつあたりという自覚がないわけではありません(-。-;


さーて、どうせまた日曜日の特番あるだろうからガッキーとゆりちゃんで眼福眼福としけこもーっとわ、

実写ドラマ「咲-Saki」 ・・これはアリかも

ノーマークだったのですが、いつの間に録画されていた(^_^;) ので観てみました。

ちなみにアニメの最初のシーズンは観ているのでキャラや世界観は把握済みです。

で、結論からいえば、
前半10分ぐらいを乗り切れば、アニメ版のファンでもなかなかに楽しめるのではないかと思いました。
さらに言えば、アニメ実写化のひとつの手法を実現したかもしれないとすら思います。(言い過ぎかも・・)

いやね、オープニングでずらずらと出てきたキャラの実写をみた時は、やっぱあの世界を三次元で実現するのは無理だわなー無茶しやがって、と正直思いましたよ。

さらに冒頭の、咲と和(のどか)の出会いのシーン、セーラー服のあまりにコスプレ感の強さに、あちゃー(>_<;)((c)すずさん)となりました。

加えて配役も、アニメキャラの記号的要素をまんま意識流用した造形で、何もそこまでアニメに寄せなくてもいいのになあ、これ典型的な悪い意味で痛い学芸会ドラマになるなー、
ま、どこまで痛いか見届けるか、と逆に腹が座ったぐらいで。

で、タコスに至っては典型的なアニメ声。ここはあえてルックスではなく釘宮ボイスの記号性によせて声優さんを当ててきたのかな・・・おや、広島弁眼鏡は若干あやしい広島弁がいい感じにバランスとれてるぞ・・・
って、もう慣れてきてしまってるでないの(^_^;)

そして麻雀の闘いの流れで、もう馴染んでしまいましたわw

うーむ、やはり麻雀漫画のフォーマットはオールマイティだなあ。原作コミックでの親和度もそうなんですが、麻雀漫画ってもともとSF歴史オカルト百合薔薇伝奇となんでも吸収してしまえるもんですから、ハードル高いと思われてた百合アニメの実写化すらなんとかしてしまったという感じですね(^_^)

もちろんこれは制作陣の「実写を可能な限りアニメに寄せてその世界観を借用することで、ひたすらキャラを愛でられる作品にする」という戦略があってのことでしょう。

あとで気がついたのですが、タコス役はタモリ倶楽部鉄道ネタでお馴染みの廣田さんだったのですね。声の記号性に寄せてきたのはスタッフの作品理解の賜物だと再認識しました。

それから光太郎を消し去ったのも大正解ですね。もともと世界観には不要な存在ですし、この世界観を壊さずに実写キャラをあてられる役者さんも全然イメージできません。

初回でもうセットアップは充分上手く機能したので、二話以降はかなり自由にキャラやシチュエーションを投入できそうですね。

来年は映画まで準備してるようなので、この企画と仕掛けがどこまで成功するか注目ですね。

これが上手くまわれば2.5次元ミュージカルのような形で、実写美少女モノ企画がジャンルとして成立したりして(^_^)

逃げ恥 第8話: 脚本によるアレンジの極み

えー、更に視聴率が上がったとか、最後の2話は拡大判だとか、絶好調の無双モードですね。
これで次の野木亜紀子脚本ドラマはさらに大胆なチャレンジを期待できます(^_^)


さて、無事二人がよりを戻した第8話、さらなるムズキュンを期待していた視聴者には次回までのお預けになってしまったかもしれませんが、わたし的にはもんの凄く脚本の冴えに感嘆した回でありました。

原作では、
「初キス→拒絶→よりを戻す」
という流れは、ほとんどみくりとひらまさの間だけで完結し、「因数分解」のくだりも結局みくりが自分で考え抜いた結論として表に出たものでした。

それに対してドラマ脚本での「拒絶」以降の流れは、

みくり失態にいちまれなくなる→丁度いい口実に乗っかって実家に逃避→親族大集合→色々な恋愛と夫婦の形を知る→それを踏まえて因数分解→一歩前へ

となっていました。
これに加えて、ひらまさ側の殻を破るというステップもしっかり描いています。

こうまとめてしまうと脚本での大幅な脚色と改変がなされたように思えますが、ドラマを観てる間は、原作をうまい具合にまとめてなおしたなー、という感想でしかありませんでした。
原作で当該箇所を確認して、その差の大きさにむしろびっくりしたぐらいで(^_^;)

それほどまでに脚本の構成が、原作の本質的なテーマや登場人物の設定・キャラをまったく損なうことなく完璧に再構成してたってことなんでしょうね。

作者はこのドラマで「多様性を描きたい」と原作者に伝えたそうです。第5話ラストのハグに至るまでにさりげなく描かれていた様々な夫婦・家族の姿、そして今回第8話のラストに至るまでに織り込まれた登場人物それぞれの想いを直接に交差させる流れ、全てがものすごく自然に展開しており、そして全てを総括した二人それぞれの決意の告白へと至る。
プロットはしごく重層的であるのに、全く重くなく、さらにコメディのテイストとのバランスも完璧です。

なんというか、周到にテーマの変奏を重ねて構成された交響曲のようではないですか。

この脚本の妙を例えるのなら、
バイオリンなどのソロ曲であった原作を、技巧を凝らして壮大なオーケストレーションに編曲した
というのがアレンジャーとしての野木亜紀子の脚本なのではないかと。

もちろん、演出・監督=指揮者、役者さん=演奏者、その他スタッフ諸々があってこその傑作=名演であることは言うまでもありません。

けど、やはりまずはスコアがないことには始まりませんから(^^)

「原作付き作品の脚本に定評のある野木亜紀子」という評価は、逃げ恥で更に確固たるものになりましたが、もうこれからは「原作付き脚本」という条件付ではなく「名脚色家」と呼ぶべきではないかと。


そうそう、わたしが「逃げ恥」のドラマ化決定のニュースを聞いて、原作の持つコメディと考察の複雑なテイストを野木脚本でどのようにドラマとして構成してくるか期待してましたが、
「逃げるは恥だが役に立つ」野木亜紀子脚本でドラマ化 - amori's blog

まさにその原作の持つテイストを捉えていた感想が第8話に対して提示されていました。

fujipon.hatenablog.com


ここでは「逃げ恥」のムズキュンファンに遠慮して、この感想を自ら異端であるかのように書いていますが、エクスキューズを入れつつもこの感想を書くに至ったのは、やはり脚本がきっちりと原作のテイストをドラマの中に綺麗に織り込んでいたからなのではないかと思います。